天に星 地に花 人に愛知
これは「ただの旅行記」がウケるかどうかのテストです。滑ったら、今後いっさい旅行記なんて書きません。ちなみにこの記事、前代未聞の冗長さでして、大変申し訳ない。
さて、先日まで世は大自粛時代でしたが、今は国家権力に睨まれずに旅行を楽しむことができます。自粛明け経済ブン回し旅行第一弾は愛知旅行です。俺は名古屋を飛ばさない。むしろ名古屋へ、かっ飛ばしていけ。
知多半島徘徊
朝一番の新幹線ひかり号。小田原から名古屋まで1時間くらいです。そこから名鉄線に乗り換えて大野町へ。大野とその隣の大草にはそれぞれお城(?)があります。
大草城 -幻の城-
まずは大草城。この城は戦国時代に織田信長の弟、織田長益によって築城が進められましたが、本能寺の変によって信長が亡くなり、長益自身も豊臣秀吉によって移封され、大草城は堀や土塁しか完成しなかった「幻の城」となってしまいました。
そんな大草城ですが、その後も歴代の領主によって堀や土塁の整備が続けられ、当時の防御設備の形態を後世に伝えています。天守閣がなくとも、堀や土塁があるだけで軍事的に有用ですからね。
この天守閣っぽい展望台は1979年に竣工したそうです。ということは、大草城は1979年に「完成」したと言えなくもない。サグラダ・ファミリアのごとく竣工が遅れましたね。お疲れさまでした。
戦国時代も令和時代も相変わらず、あなたが大きなプロジェクトに携わっている最中でも、人事は大してそんなことを考慮せずに転勤を命じてきます。大草城の歴史は、「携わっているプロジェクトを途中で放棄しても、後任がその残骸を使いたければ勝手に使うでしょ」ということを我々に教えてくれます。
読者諸賢も異動が決まったら、溜まった書類であなたなりの「土塁」を積み上げ、あとは忍者のように息をひそめてドロンしましょう!もし後任がそのプロジェクトを完成させたら、「完成手前まで作り上げたのは俺だ」と声高に叫び、手柄を強奪しましょう!!
大野城 -城は埋もれたが山海は変わらず-
次に、ちょっと歩いて大野城へ行ってきました。戦国時代、佐治氏がここを拠点としたそうです。かつて城があった小高い丘は宅地として開発され、「城跡」として整備された区画は丘の頂上付近の僅かなスペースのみです。この城は先に挙げた大草城の築城に伴って廃されました。結局、織田長益の移封後、この地域には大草城という「城もどき」と大草城という「廃城」が遺されたのです。後任者、不憫なり。
ここには伊勢湾がよく見渡せる展望台があり、それが一応「天守閣」なのですが、当時の姿を復元したのではなく、新規設計です。当日は梅雨時にしては珍しく天気がよく、海の向こうの山々まで見えました。
大野の佐治氏は江戸時代にはすっかり歴史の表舞台から姿を消し、かつての居城も荒れ果てましたが、山の大きさと海の青さは往時のままです。
常滑 -陶器の町-
お次は常滑市街へ。常滑は陶器の町です。特に朱泥の急須が有名ですが、そういった一点ものの食器や茶器だけでなく、土管やタイル、便器、洗面台など、時代に応じて様々な窯業製品を大量生産してきた「工業都市」です。窯に改造を加えて燃料を薪から石炭に変更したり、中規模の窯でも土管を大量に作ったりするなど、明治時代からずっと「近代化」「工業化」にかなり力を入れていたようです。一口に陶磁器の産地と言っても、萩(山口県)のような芸術性に特化した窯業の町とはまた趣が違います。
常滑ではコップや急須や茶碗を買いました。それらはそのうち紹介するかもしれません。陶器の町なので、当たり前ですが陶器の店が数多くあり、個性豊かな品々を買い求めることができます。それにしても若いカップルの客、沢山話しかけてくるタイプの職人に気圧されがち。これ、あるあるですね。
さて、工業と観光の両輪がうまく連動しながら発展してきた常滑は、中部国際空港の開港と発展によって今後も伸びていくのではないかと私は期待しています。
急須や茶碗から便器や電気設備用の碍子に至るまで色々作る窯業の守備範囲は広く、たとえ主力製品が移り変わっていっても当分は廃れないように思います。現に陶器製の土管や焼酎瓶の時代は終わりましたが、衛生陶器などは今でも堅調です。
そして、コロナ禍で観光地が苦しんでいるのを間近で見てきた者としては、観光需要がありつつもそれに頼りすぎない常滑市の盤石具合を羨ましく思います。観光は国際情勢の変化をはじめとする突発的なトラブルにめっぽう弱いですからね。
また、中部国際空港の開港によって、常滑は知多半島という小さな半島にありながら、交通拠点としての役割も大きくなりました。
工業にせよ観光にせよ、それに一辺倒だと、その産業が斜陽になった時に町ごと衰退する例はかなりあります(夕張とかデトロイトとか)。その点を踏まえると、工業・観光・交通拠点の3つの要素がバランスよくミックスされた常滑は、時代の変遷に対応しやすいタフな町なのかもしれません。
城北線からの愛知環状鉄道からのリニモ -妙な大移動-
2日目は名古屋スタートです。愛知の様々な鉄道を堪能しました。移動手段が目的と化してしまいました。
城北線
名古屋の隣駅、枇杷島から勝川まで結ぶ城北線は、一言で表すなら「変な路線」です。名古屋の街中に立派な高架線があり、そこをショボいワンマンカーがトコトコ走ります。どうしてこんなことになったのか?それは「賃借料負担が重い⇒運賃が高すぎ⇒利用者が敬遠⇒儲からない⇒賃借料負担が重い」という負の連鎖が続いてきたからです。城北線はJR東海が苦し紛れに作った子会社が運行しています。運賃は初乗り230円、終点までわずか11kmで450円です。なかなか高いですし、日中は毎時片道1~2本程度しか列車が来ません。都会にありながら、田舎の列車並みにダイヤはスカスカで、1両編成のディーゼルカーがガラガラでした。結局、近隣の皆さんは名鉄に乗っているようです。
ボロクソ言ってしまいましたが、旅行で乗る分には大変面白い路線です。田舎で走るようなワンマンカーが都会を疾走します。また、今後10年ほど経つと路線の賃借料が変わるそうなので、その前後に運賃が安くなったり、増発したりする可能性は大いにあります。将来性と大人の事情で生き延びているような路線、それが城北線です。
愛知環状鉄道
愛知環状鉄道は高蔵寺から岡崎を結ぶ鉄道です。環状鉄道と名乗っていますが、山手線のようにグルグル円を描いているわけではありません。むしろ愛知県の東側を南北にぶった切るように走ります。この路線は色々な大人の事情があって第三セクターとして今に至ります。というか、城北線も愛知環状鉄道も「愛知の事情」を引き受けた結果として生まれた存在です。詳しく知りたい方は「日本鉄道建設公団」でググってみてください。大人の事情の塊のような公団です。
今回は高蔵寺から岡崎まで、八草で途中下車しつつ全線を乗り通しました。今回は素通りしましたが、途中にある瀬戸市も陶磁器の有名な町です(ちなみに陶磁器のことを「せともの」というのは当地の瀬戸焼が由来です)。沿線にはトヨタで有名な豊田市もあり、「ものづくり」の町を結ぶようにして電車が走ります。
わざわざ全線を乗り通す私はただの「ものずき」です。
愛・地球博記念公園とリニモ
私と同世代の諸賢は「愛・地球博」を覚えていますか?モリゾーとキッコロ、懐かしくないですか?あれが15年前(2005年)なんですよ。驚いちゃうね。
かつての会場は「愛・地球博記念公園」となりました。万博前からここが公園だったこともあり、色々な施設が存在しています。
入口の近くにある愛・地球博記念館へ行ってきましたが、各国から送られた記念品やら各パビリオンの説明やら色々な展示物があり、往時の繁栄が偲ばれます。愛・地球博は環境問題をテーマとしている要素が強く、来場者にもゴミをかなり細かく分別させていたそうです(会期中に行ったことがないので詳しくは知りませんでしたが)。そういえば、あの頃は日本全体で環境問題への関心が強く、二酸化炭素云々みたいな話題が大きく取り上げられていましたね。京都議定書の発効がなんちゃらとか。
ちょっと面白いのは、愛・地球博には天然ガスを燃やしまくるパビリオンが存在していたことですね。今の市井の感覚なら「そんな環境に悪いことをするな」と言われそうですが、当時は天然ガスが「地球にやさしい新時代の燃料」みたいなツラをしていました。確かに石炭と比べるとかなり環境負荷は小さいですが、それでも燃やせば二酸化炭素が出ますよ...。
記念公園へは、八草で降りてリニモに乗り換えて向かいました。リニモを簡単に説明すると、無人で走れるリニアモーターカーです。それほど高速ではありませんが、空中に浮きながら走ります。新交通システム(ゆりかもめやシーサイドライン等)の変わり種といったところでしょうか。万博向けの見世物的な要素もありましたが、開業から15年経っても健在ですし、何よりすごいのは5年ほど前から黒字ということです(コロナのせいで今年はさすがに分かりませんが...)。
愛・地球博記念公園の隣駅には陶磁美術館があり、私も訪問しましたが、芸術作品としての陶磁器は、私にとってあまりに難解でした。私の知識をもって、写真なしであれこれ説明するのは不可能だと悟りました。芸術、難しすぎる。
結局、2日目は名古屋⇒枇杷島⇒勝川⇒高蔵寺⇒八草⇒愛・地球博記念公園⇒八草⇒岡崎⇒豊橋⇒小田原と移動したわけですが、馴染みの薄い土地をずっと列車で移動するのって、結構疲れますね。
名古屋めし総集編 -結局、食べ物の話しか興味ないでしょ-
「味仙」の台湾ラーメン
愛知での食事もいくつかご紹介します。
一日目の夕食は味仙の台湾ラーメン。これが台湾ラーメンの本家です。なぜ名古屋名物なのに「台湾」ラーメンなのでしょうか?それは台湾出身の方が名古屋で作り始めたからです。
しれっと出される割に相当辛いです。東京のザコい台湾ラーメン・台湾まぜそばの感覚でがっつくと、むせます。愚かな私はその辛さを知らずに大盛を注文し、水をがぶ飲みしながら格闘しました。
ラーメン上の「挽肉」部分をなんとなくそれっぽく作るのは難しくなさそうですが、そこで見事な調和を生み出せるのはさすが元祖の技量といったところでしょうか。ボソボソしていなくて美味しいです。
ちなみに台湾ラーメンは、台湾では「名古屋拉麺」と呼称されているそうです。この料理が生まれた経緯を踏まえれば理解できますが、なんだかジワりますね。
きしめん
二日目の朝はきしめんです。太くて平たいうどんです。きしめん並みに平たい説明で済ませます(激寒)。
パスタもラーメンも太麺好きの私にとって、駅の麺屋に「きしめん」という選択肢があることの喜びは大きいです。太い麺には小麦の旨みがあります。太い麺にはすすった時の躍動感があり、太さによって指数関数的に増大する食べ応えがあります。
「スガキヤ」のラーメン
中京地区の人がよく話題にする「スガキヤ」。名古屋が発祥だそうです。ラーメン一杯が税込みで330円(!)。大学の食堂並みに安い。味は煮干し風味のある、すっきりとした豚骨スープです。
価格帯の違うラーメンと殴り合いをさせるのはフェアではないので、大学の食堂で出てきたラーメンを思い出しつつ比較していきますと、決定的に異なるのは麺なのではないかなと感じました。こちらは麺がマトモなのでおいしく食べられます。逆に言うと、大学生協のラーメンって、謎のブニブニちぢれ麺が諸悪の根源だったのでは。
スガキヤといえば独特の「ラーメンフォーク」が名物とのことで、実際に使ってみましたが、先端のフォーク部分に麺がうまいこと絡むのが不思議なんですよね。よく滑り落ちないなと感心しました。
「最後の晩餐」、ひつまぶし
帰り際に豊橋で食べたのはひつまぶし。おひつに鰻がまぶしてあるので「ひつまぶし」です。ひまつぶしではありません。お茶漬け風にしたり、薬味と混ぜたりしながら食べる、うな重の変種だと思ってもらえれば近いと思います。
安い鰻はやや臭みがあるので、安物ばかり食べていると「鰻の旨み、ほとんどが蒲焼のたれ説」に同調しそうになるんですが、それなりの値段の鰻はやっぱり美味しいですね。魚肉なのにフワフワ感があります。鰻の薬味といえば山椒のイメージが強いですが、意外にもネギとの相性が抜群でした。
ついでに肝吸いというもの(画像右下)を初めて賞味しましたが、これも大変美味しいですね。魚の出汁がよく出ている上に、全く臭くなかったです。肝はコリコリしていて、ホルモンの感覚に近いです。それにしても冷酒とよく合う。くぅ~!
低価格でもおいしい鯵や秋刀魚と違い、「おいしく食べられる鰻は高い」という感じですが、ケチらなければ値段相応の味を楽しめます。スガキヤラーメンの15倍以上もの金額を支払いましたがね。愛知では、昼食と夕食の間にとんでもないインフレが起こり得るようです。
首都圏に飽きたら、どこ行く?
天に星、地に花、そして人には愛知が必要です。愛を知らない人間が哀しいのと同じで、愛知を知らない人間もまた哀しい生き物です。6000字も書いておいてこの結論はいささか強引ですが、読者諸賢も首都圏や京都・大阪の旅に飽きたら、愛知旅行は如何でしょうか。近世からずっと豊かな東海地方の歴史と産物、それに加えて食の愉しみが、愛知にはあります。
それではみなさん、ごきげんよう。